部屋の窓を開けると、真夏の夜特有の、昼に比べいくらか涼しい風が彼女の肌を掠めた。
日中、太陽のみの存在を許していた空は、今となっては数え切れないほどの星に埋め尽くされている。
点々と光る星の傍らで、ぼんやりと、寂しげに在る月の出で立ちは、その時のの心情を映し出しているかのようだった。
――あのときに見たのも、確かにこんな月だった―――
真夏の蒸し暑さの残る部屋に戻る気はしなかった。
そのまま、月に惹かれるかのようにベランダへと出ると、柵に腕を掛け、もう一度その月を見つめなおした。
真夏の夜の夢
その日、イタリアは驚くほど快晴だった。
街にはいつもどおり人々が行き交い、がいるこのキャバッローネのアジトにもいつも通りの時間が流れる―――はずだった。
そこに流れるのはいつもとは違った不穏な空気。まだそこまで大きいものではなかったが、やがては大きいものになるであろうことは、確実ではないにせよ、そこにいる誰もが感じ取っている事実ではあった。
マフィアとはなんの関係もない世界で育ったが、この世界にかかわるようになって――マフィアのボスと関係を持つようになって早8年、せわしなく動くファミリーから、いくらか緊張した空気を彼女も感じ取る。
実際にこのところ、街中で不穏な事件もいくらか起こっていたし、今のところは被害は最小限に抑えられていたが、これからどうなるのかを誰もが不安に思っていた。
だからこそこの一帯を所持するキャバッローネファミリーである自分達もそれに尽力していたし、その状況を誰よりもよく理解していた。
「Scusa!…って、なんだ、か。」
ぶつかって、振り返るまで認識していなかったらしく、驚いたようにを見る。
それはいつもに比べてだいぶ珍しいことで、彼がずいぶん忙しく、切羽詰っていたことが伺えた。
「書類、持とうか?」
ディーノが抱え込んでいた書類を見て、特に意図もなくそう告げる。
『大丈夫だ』と、即座に返したディーノはしかし、その後少しばかりから視線をはずした。
「どうしたの?」
「あ…あぁ、なんでも…」
見上げてそう問うが、その返事の歯切れはいつもの彼らしく無く、悪かった。
だいぶ何かに迷っているようで、それが余計に彼女を困惑させる。
「…いや」
切り替えたかのように、真剣なまなざしをに向ける。
「今夜、部屋で待っててくれ…話があるんだ。」
一人で待っている間の部屋は、いつも以上に閑静に感じた。
いつよりも真剣な瞳の彼のその言葉に、その『話』というものに、直感ながらも不安を感じる。
今の状況を考えて、その話についてなんとなく予測できないことも無かったが、あえて信じたくは無かった。
ディーノが部屋に入ってきたその瞬間、不安のあまりか、ドアの開閉の音すら聞こえなかった。
「あ…ディーノ…」
「わりぃな、待たせて。」
いつもの、そういうときに見せる表情を見て少し安心する。そうして初めてここ何日かの不穏な空気と、ファミリーの状態から、自分が緊張していたことに気づく。
「…話って何?」
不安を、早く落ち着けたかった。単刀直入に、そう告げる。
「ああ…落ち着いて、聞いてくれ。」
「騒ぎが落ち着くまで…日本に帰って欲しい」
それは、彼の心からの願いだった。突然の言葉に驚きつつも、迷いの無いまっすぐな瞳に、彼の決断がゆるぎないものであることが感じ取れる。
「私は…そんなに、頼りにならない?」
「違う!ただ…俺は。」
『無事でいて欲しいから』
そういう彼の気持ちが、声から、まなざしから、声にそうとは出さずともじかに伝わってくる。
すぐに否定の言葉を発したディーノが、少しでも普段自分を頼ってくれているようで、ありがたいと、素直にそう感じた。
もちろん彼の気持ちは言われずとも分かっているつもりだったが、その決断こそが、無事でいて欲しいという願いを持つということが、同時にこれから彼が危険に晒されるということの表れだった。
ディーノの頼りになりたいという願いとは裏腹に、邪魔をしたくないと、荷物になりたくないという思いが募る。
ディーノの戦闘能力が高いことが彼女自身もよくわかってきたし、傍らについてきた八年間、その強さはファミリーの人たちと同じくらい分かっているつもりだったし、それを信じてきた。
だが、その相手によっては戦闘要因ではない彼女を守りながら自分のみを守るのはたやすいことではなく、それだからこそ出てきた決断であることを悟った。
「それは、死ぬ危険がある…っていうこと、だよね?」
「…」
否定の言葉は、無かった。その沈黙こそが、他のどんな肯定の言葉よりも強いものだった。
その沈黙が、思いやりが、ディーノからの何よりの優しさで。
「最期まで一緒にいたい…って、そう思うのは、やっぱり…わがまま、なのかな…」
だからこそ、こういう願いを持つにとって、それは残酷でもあった。
『これで終わりになってしまう』ことに対する恐怖。彼の死の瞬間を、異国の地で過ごすことが恐ろしく感じた。
彼と、その強さに、生に対する信頼は強かったが、それでも最悪の事態が彼女の脳裏に浮かぶ。
失うことへの恐怖からか、はたまた、必然的に離れてしまうことへの惜別感からか、ディーノを抱く腕に心なしか力が入る。
そのまま抱きしめ返すディーノの腕は、安心させようとするものだったが、それでも微かに普段のそれより強いものだった。
「最期には…しないさ。」
一段と抱きしめる腕を強めた後、そういって沈黙を破る。その言葉はを安心させるようで、自分にも言い聞かせるようでもあった。
「たった8年じゃお前にやりたいこともやれなかったからな…迎えにいくさ、絶対に。」
確かに、死ぬかもしれないと、そういう不安もあったが、それでも彼のその意思がとても強いことが、その声で分かった。
確証は、無い。死への、最期への恐怖は未だに拭いきれなかった。だがしかし、今までの信頼を続けたいと、その誓いを信じたいという気持ちがそれに勝った。
「絶対に…日本に、迎えに来てよ…」
不安げにそう発する彼女の唇に、口付けを落とす。
その優しい誓いを、ぼんやりと輝く月と、幾千の星が、見守るようにそっと照らし出していた。
彼と誓いを交わし、イタリアを発ってから今日で丸一年がたっていた。
気づけば今日も、彼と最後に一緒に見た月の下に出ている。
時差はあれど、彼と誓い合った一年前の今日も、こうやって月が、星が彼女達を優しく照らし出していた。
ディーノからの、終結の知らせは未だになく、むしろ1年たった今は更に危険な状態にあることが分かった。
彼の死を、ふと想像してしまい思わず手が震える。
『迎えにいくさ…絶対に』
「絶対に、迎えに来てよ…」
月に向かって、そうつぶやく。なんの返事もなく、月はただ優しく地球を照らすだけだった。
夜の、日本のベランダで一人、そうつぶやきながら手に力をこめる。彼の声を思い浮かべて、少しだけ震えが治まった気がした。
(貴方は今でも、私と同じ空を見ていますか?)
2007.9.1
ディーノ夢。なんか頑張った。
8年も一緒にいて跡取りは?とかそういう質問は、考えるのが面倒だからティッシュに優しく包んでゴミ箱にポイして焼き払う方向で!
久々の小説なので稚拙な部分があるかもしれませんが、まぁなんていうか海外生活で日本語が不自由になった(英語も不自由)んだなということにしてあげてください(図々しい!)元からとか言わない。
ちなみにタイトルは傍超有名イギリス作家から。特に意図は無いです、内容的に。