できることなら、この優しい空間に、永久に二人だけでいたかった。
一夜限りのシンデレラ
イタリアのとあるマフィアのアジトの一室。そこに彼らはいた。
その一室からは、会話の音も、一筋の光も、漏れてくることは無い。ただ静かに抱き合う二人に、暖かい視線を送る者も、冷たい視線を送る者もいなかった。ただ、二人だけの空間。だがしかし、世界中のどこよりも、優しく、暖かい空間だった。
片方の男――――ディーノは、ふと、抱きしめている彼女から視線をはずし、その部屋にある掛時計を見やる。
無機質な壁に掛けられたそれは、無情にも時を刻み続けていた。短針は11を、長針は6を指し示すその時計の表情は、彼らを取り巻く世間のように、ただ、冷たい。動くことも、語らうこともしない彼らのいるその部屋には、やがて訪れる惜別へのカウントダウンの音だけが響いていた。
残りの30分・・・そこでシンデレラの魔法は、解ける。二人だけの偽りの空間という魔法が。彼らが愛し合うことのできる、最後の時間があと30分で終わりを告げる。
抱きしめているは、その視線を決して時計の方へと向けることは無かったが、時を刻む音を聞くたびに、彼を抱きしめる腕の力を徐々に増す。まるで、その腕の中にディーノを、ディーノだけを閉じ込めてしまうかのように。
それに答えるように、ディーノも、抱きしめる腕の力を強めた。
元々愛し合っていた二人に、別れなければならないその『理由』が突きつけられたのは本当に唐突だった。
ディーノ同様に、彼女の父もイタリアのマフィアのボスであったが、彼女以外に子を持たない彼には、「息子」となる存在が必要だった。また、彼女のファミリーはすでに壊滅寸前であり、救世主となる新しいボスの存在がどうしても必要であったのだ。
もちろん、キャバッローネのボスを務めるディーノにその役が務まるはずも無く、そうして用意されたのがの結婚話であった。他ファミリーのボスの息子でもあるその許婚は、他ファミリーとの同盟という名目の下に、確実にのファミリーに救いをもたらす存在であった。
父に、それほどまでには結婚を強いられたわけではなかったがしかし、ファミリーや父、家族、その総てを捨てディーノとともに生きるには、彼女はあまりにも優しすぎ、あまりにも自分のファミリーに馴染みすぎていた。
それはディーノとて同じことで、それをできなかった彼らには、こうして偽りの空間でのみ時間を供給するという術しか残されていなかった。
その、望みもしない、だがしかし避けようの無い儀式の時間は刻一刻と近づいていた。
時は経ち、時計の長針は8を指し始めていたが、お互いの目にそれはもう映ってはいない。いや、目には映らずとも、時を刻み続けるその『音』で、あるいは二人ともその残りの時間を否応無しに感じ取っていたのかもしれない。もはや時を告げるそれは、二人にとって忌まわしいだけの存在と成り果てていた。
「もう―――――――終わっちゃうね・・・。」
最初に静寂を破ったのはのほうだった。くぐもったその声は、悲しみに満ちていて、自然と二人の別れを脳裏によぎらせた。その言葉に、ディーノは何も返すことなく、ふたたび腕に力をこめる。その行動はどんな言葉よりもの言ったことを肯定し、そこにふたたび訪れた静寂は一層悲しみの色を強くしていた。
「いっそこのまま…お前を――を、閉じ込めちまえたら、いいのに…な。」
それは、お互いがこの日が始まってからずっと考えていた手段。できないとは分かっていても、そう願ってしまうその心は、シンデレラが願うそれによく似ていた。裏など持たない、純粋な想い。
ただ、彼らの傍には、南瓜を馬車に変える事のできる…城へと誘うことのできる魔女はいないけれども。
そこでできることは、お互いを強く抱きしめることだけだった。
長針はやがて、11から12へと向かい始めていた。一刻一刻、正確に刻み続けるその音が、二人を現実へ帰そうと、二人だけの空間を保つ『魔法』を、今にも崩そうとしていた。
「、上、向いてくれ。」
そう彼女に告げるディーノの声は、彼女が知るどのときよりも優しかった。おもむろに顔を上げたの瞼に、頬に、何度も、何度も優しくその唇を落とす。最後にたどり着いた彼女の唇に触れてからは、その唇が離れようとはしなかった。離れた瞬間、別れてしまう気がして。
そのまま、やがて―――――
静かな空間に、鐘の音が鳴り響く。
総ての針が、12を指した。どちらともなく、目はそらさないまま、お互いの唇を、体を名残惜しそうに放した。
「私・・・もう、行かなくちゃ…。」
視線はそのままに、辛そうな声でそう告げた。それでも涙をこぼさないで入れたのは、彼と入れる瞬間の最後まで泣かないでいたいと、そう願った彼女に魔女がくれた最後の魔法だったのかもしれない。
「ああ…元気でな、。」
最後につながれた手は、そういった後に、ディーノの手からするりと抜けていった。その手はまっすぐに、その顔はディーノに向けられることなく部屋の外に通ずるドアへと向かっていった。
「行くな、ここにいてくれ」
ふと、そんな言葉が、がドアノブに手を書ける瞬間にディーノの脳裏をよぎった。その言葉を、この場で、に発することができたならばどれほど楽であったろう、そう思いながらも、マフィアのファミリーを担う責任を、想いを知る彼に、それはどうしてもできない言葉だった。彼女を、これ以上苦しめたくなかったのかもしれない。
ただ、「愛している」と、その言葉の代わりにに出せた言葉はそれだけだった。その時の言葉を発した、大切なものを失う瞬間のその表情は、彼女はおろか、ディーノにすら分からない、とても苦しそうな笑顔。
「私も…愛してるよ、今までも、これからも…」
ただ振返りそう発した、その言葉はなんの翳りも無く澄んでいたが、彼女があけようと触れたそのドアから差し込むかすかな光が、彼女の今にも泣き出しそうな表情を映し出していた。
何の音も立てずに、彼女は、彼の元から―――彼の運命から、去っていった。
4月1日という、唯一嘘が付ける日付が過ぎ、その部屋には“現実”が訪れたというのに、ディーノには未だに実感がわかなかった。彼が感じることのできた、彼女が出て行った後に、その部屋に残されたものは、妙な静寂と、氷のような冷たさだった。
(あなたを愛しているという、この気持ちも偽りだったのならば、どれほど楽だったのだろう。偽りの空間は、唯一、正直になれる場所であったのに…)